三の章  春待ち雀
H (お侍 extra)
 


     
山帰来(さんきらい)


          




 いつから身につけたそれであったか。そうそう、このてるてる坊主が切っ掛けではありました。前線という実戦に出てゆく方々に比べ、工兵という存在は扱いが低い。別にちやほやされたい訳じゃあなかったが、後方担当を小馬鹿にするよな顔触れには、その大きな勘違いを正してやりたいという気概を常に持ち合わせていたところは、やっぱり気が強い性分だったのか。我らがいなくてはあっと言う間に立ち行かなくなるくせにと、きりきりかりかり怒ってばかりいたところ、それでは上手くいくものとて、ぎこちなくも咬み合わず、失速しての失敗に終わりかねないよと。優しく忠告して下さったお人がいて。お守りだよと下さったのがこのてるてる坊主。まずは笑って、それからかかればいいと、そうと教わったその通り、短気を静めて周囲を見回すようになって。それで身についたエビス顔だったんでしたっけねぇ。でも、それが意識せずとも張り付いてしまったのは、残念ながらそのお人の思惑とは到底違っての、何とも陰惨なことが原因で。皮肉なことに、それ以降のこのお顔の方こそが、私の素顔のような印象を振り撒いてもいるらしく。名前は思い出せずとも、あのいつも笑ってた悩みに縁の無さそうなお人、なんて。結構な言いようをされてもいましたかねぇ。





   ◇  ◇  ◇



 神無村は少しずつ、次の季節の訪のいに染められつつあった。春夏秋冬、四季のはっきりとした地方であるらしく、特に冬場は村の外への行き来が大変なほど深い雪に覆われるのだとか。そもそもは南方の植物である米が、なのにこんな雪深い北方の地でああまで豊かに実るのは、品種の改良等々もあろうがそれ以上に、村人たちの1年掛かりの努力と苦労の賜物。純朴で一途な農民は、引っ繰り返せばそれだけ粘り強くて諦めが悪い。臆病なのは非力だからで、それを卑屈で浅ましいなどと決めつけるのは力を持つ者の驕りかも。

 「…。」

 立って歩き回ってもいいとの許しが出たとはいえ、長らく横になり続けていた身。何せ太腿と腰の骨をやられたのへ加え、腹部の傷への快癒のため、笑ってもいかんとの厳命が出たほどだったがため、動き回ることへと必要な、あちこちの筋肉がとんでもなく衰えてもいる。なので、そうそういきなり、元の通り…あの神無村攻防戦や、都への特攻を仕掛けた戦さの折のよに、ひょいひょい駆け回ったり様々な力仕事へと馳せ参じたりがこなせるとは行かなくて。まずは起き上がり立ち上がっての、屋内を歩いたり段差を上がり降りしたりと、ささやかなことから少しずつ、回復訓練を積むこととなった。本人は根気もあっての粘り強く、単調なそれを息が弾むまでと頑張って見せるのだが。傍らにつく介添え人が思いの外に過保護なものだから、一刻と経たぬうちにも“はい休憩”と制止の声が掛かり、軽々と抱え上げられの寝台に戻されのと、ちょいと強引な甘やかしを受けてもいて。
『ゴロさん〜〜〜。』
『医師殿も無理はいかんと言い置いたであろうが。』
 傷が塞がったというだけのこと。まだまだやわいのだから、それを忘れるなよとの仰せを遵守させようとの慎重な構えを取っている五郎兵衛殿。似たような期間を同じように伏せっていながら、床から離れたその途端、あっと言う間に“梢渡り”なんてな荒業を見せてくださった方もおいでだったが、
『久蔵殿は例外中の例外だよってな。』
 何よりあちらさんへは、同じ医師殿が“刀の鍛練に望もうが、踊りのお稽古を始めよが、後への支障は出ねぇからの”と太鼓判を押して行ったと聞いている。それを説いての有無をも言わさず、さあさ横になったりと促されては、たはは…と苦笑をしつつ、従うしかない平八で。
「…。」
 これもまた、やっとのことで気を遣わなくなってくれたからこその静けさが、室内に満ちゆく。五郎兵衛が看護役を買って出ての、彼らだけでの同居が始まった最初の内は、間を保たせようとしてだろか、やたら話しかけて来たり笑い話を一席ぶったりと、なかなか大人しく静養してくれない困ったお人だったものが。数日を経てのやっと、用がないのなら口を噤むようになり。こちらの手仕事へ黙って注視を向けてみたり、そうかと思えば連子窓の方へとお顔を向けての、どこをか遠くを望むよな取りつき難い眸をしてみたりと、こちらへの意識をしないで過ごしてくれるようにもなった。そもそも、彼らだけの寝起きの場をわざわざ設けたのは、怪我の重さ以上に…彼のそういう気性を先読みし、周囲への気遣いを最小限へと押さえる意味があってのことであり、

 “及び腰から出ているものじゃあないから、余計に難儀なのだ。”

 幇間を務めていた七郎次の人当たりの良さや物腰の嫋やかさも、一皮剥けば、元・軍人の冴えたる機転や、切れのいい所作が機能美へまで昇華したその上へ張り付いた代物であるように。平八のにこやかな顔や鷹揚な態度は、決して…コトなかれ主義から来る“その場しのぎ”や、場を盛り上げるのが好きでという剽軽さからやっていることじゃあない。

 『これは戦さでしょう? 戦さなら裏切りものは始末するのが道理です。』

 小柄でしかも、童顔だから。屈託のない笑顔は、殊の外、村の人々にも馴染むのが早いかに思われたものが。とある臆病な男のやらかした裏切り行為へと、烈火のごとく、いやいや、それは冷ややかで取り付く島もない憤怒の様相を示して見せた彼であり。恐らくはあれこそが、彼の素の部分でもあると思われる。本当は真摯で生真面目で、誠実清廉であるが故の、偽りや穢れへだけは譲れぬとする激しい気性を持ってもいて。そのあまりの落差から、彼はそんな顔をあえて隠しているのだというのが、仲間内の幾たりかへはすぐに知れたほど。
“隠している、か。”
 何かしら、重くて昏いもの。切っ掛け一つでああまでも、激しい感情の発露へと点火するほどのもの。そんな何かを抱えている内面を、人へと晒しての干渉されたくはないがゆえ、自分への注視が集まらぬよう、賑やかしの面子でございと型に嵌まった役どころを先に演じて、人からの印象を誤導してしまえという傾向
(ふし)があり。
“器用なのだか不器用なのだか。”
 ある意味では楽をするための作為だろうが、自分の身だけを庇っての巧妙怜悧とは到底思えず。むしろ、立派な“気配り”に相違ないのではなかろうか。自分の弱みや暗部を晒されたくはないというよりも、何かしら恐ろしい修羅を抱えた自分なんぞに関わるな、気を遣うなという…。






  ◇  ◇  ◇



 神様がいるのならきっと、私を試しておいでなのだ。
 どんな苦境や苦衷においても、さしてへこたれない、懲りない私なものだから。
 今度はこんな素晴らしい人々を集めての、
 同等に扱ってくれる、優しくして下さるように計らって。
 私がどう振る舞うのかを試しておいでなのだ。

 …そうとでも思わないとやり切れない。

 優しくされるのは苦手だし、どうしていいか判らない。
 辛いことなら我慢すればいい、独りぼっちには慣れればいい。
 でも、優しくされると…困ってしまう。
 何をお返しすればいいのかな、
 もしかして…優しさに甘えて身を乗り出したところを
 冷たく撥ねつけられるのかななんて、
 そんなことまで勘ぐっては怯えてしまう。
 ああやはり私は浅ましい人間なんだと思い知らされて、それも辛い。

 ……… ああ、空は遠いなぁ。






 十分に気をつけていたつもりだった。とはいえ。このところは機嫌もいいのか良く笑うし、工具をいじっていると気鬱も忘れるのか、一心不乱に集中しているようなので。そうやって心の平静を取れるようになってくれればと、こんな安定状態を平生のものと、厚いものとしてくれればと思っての、静観に徹していた。後から思えば、それが隙を生んだのかも知れなかった。

 「…ヘイさん?」

 不意に、それまで微かに響いていた物音が掻き消えた。何やら小さな道具を膝の上にて組み立てていた平八だったが、このところは腹にあてがっての懐ろへ、柔らかい枕を抱えての作業をしているようなので。腹を圧迫させる、前のめりの姿勢も取ってはいないしと、安心していた五郎兵衛だった。だが、その静寂には…何だか嫌な予感があっての振り向けば。
「…。」
 錐のように細い、ドライバーをじっとその手に見つめていた平八には、掛けられた声も届かぬらしく。根を詰めての作業に没頭すると、こういうことがままあったので、こたびもそれかと吐息をつきかけた五郎兵衛だったが、

 「…っ、ヘイさんっ! よさないかっ!」

 ガターンっという大きなものが板の間へ倒れ込むような物音は外へまで響き。それへと続いた がちゃがちゃという細かい音にかぶさって、ばさがさという布を乱暴に振り回すような音や、低くはなったが言い聞かすような、芯の堅そうな調子の声の応酬が続く。
「…離して下さいっ。」
「そうはいかん。ヘイさんこそ、それを渡せ。」
「ゴロさんっ。後生だから離してっ!」
 悲鳴に近い金切り声まで上げたことへも怯まずに、大振りの手が相手の手首をぐっと掴まえて。力を込めれば関節が開く。
「く…っ。」
 痛い想いをさせたくはなかったが、逆手に握ったドライバーは立派な凶器。それを自分のみぞおちへ目がけ、思い切り突き立てようとしかかったのだから、そのくらいは我慢してもらわねば。布団の上へと落ちたそれを、素早く拾い上げると背後へと放る。掴んだままな手がもがいたが、そもそもの腕力に差があったその上、長く臥せっていた平八に敵うはずもなく。
「…っ。」
 これまでに見たことがないほどの険しい顔は、だが、同時に…何かしら必死の想いに染まっているようにも見えて。抵抗も敵わないとようよう悟った彼だったのか、今になって肩を上下させるほどもの荒々しい息をすると、その全身が一気に萎えた。
「…ゴロさん。」
 物音を聞きつけたのだろう、戸口のところにはいつの間に駆けつけたのか、七郎次が顔色を無くして立っており。揉み合ううちに肘や体が当たっての、倒れ込みの吹っ飛びのとしたものか。工具やら雑貨やらが板の間の一面に撒き散らかされたその真ん中、寝台の上にて上体だけでとはいえ、相当に激しくも掴み合ったその格闘が、やっとのこと止まったらしい二人の様子へ、何をか察して息を飲む。いつかは破綻がやって来るのではなかろうかと、秘かに警戒してはいたこと。やっぱりなんて言いようで迎えたくはなかったが、気を留めて注意していたことが、今の今、現実のものとして弾けたのは明白であり。
「…。」
 何と声をかければいいやら、悲壮な空気に肩を落とした七郎次と、それから。間近で自分を引き留めたままな五郎兵衛とへと。荒い呼吸を繰り返していた平八は、そのまま声を震わせて、単調な声で呟き始める。

 「私は、ずっと、自分で自分が許せなかった。
  だから、誰とも縁
(よしみ)を結んではならぬと、
  誰からも必要とされず、がっかりさせるばかりの存在でいて。
  そういう想いの痛さに耐えるのもまた、課せられて当然の罰だと思ってて。」

 呼吸の起伏は収まったらしいが、それでも、その声はたいそう苦しげであり。まるで、肺腑の空気を全部吐き出したいかのようにさえ見えて。

 「私はそうやって生きて行かねばならないのです。
  だから。
  優しくされたり、あなたをと求められたり認められるのは困るんです。
  私なんて必要とされてはならないんです。
  どうしていいか判らなくて、苦しくて…。」

 五郎兵衛からそっと離された手を、膝の上、もう一方の手で掴みしめ。深い息を一つ、ついた彼は、唇を噛みしめて何かを堪えていたようだったが、

 「私なんかが…自分なんかが、のうのうと生き永らえていてはいけない。
  だって私は人殺しだ。
  それも一切 手を汚すことなく、味方を山ほど殺してしまった。
  前の日まで笑い合って仕事をしていた仲間を殺した、
  そりゃあ残忍な人殺しなんですよっ!」

 最後の一言に至っては。それこそ激しいまでの素のお顔で、喉が裂けるのではなかろうかというほどのもの金切り声で。まるで毒の杯でも煽るかのように、意を決しての一気にと、叫んでいた平八だった。一体どれほどの闇が彼の中にうずくまっていたものか。五郎兵衛が、七郎次が、息を飲んでの見守る中で、

 「私は…私はねぇ、多くの味方を殺してしまったんですよ。
  自分の前線での整備活動を…極秘だったにもかかわらず、漏らしてしまった。」

 平八のこぼした一言に、同座した二人の気配が凍る。ああそんなにも重いもの、背負っていた君だったかと。それがどれほどのことかが判るからこその、悲しい納得に気勢が沈む。裏切りという行為へどうしてああまで過敏な平八だったのかの、これが答え。
「…あまりに馬鹿正直だったんですよね。」
 軍部の作戦指揮官だったお人から、悪いようにはしないからと唆されて…だとはいえ、機密は機密、誰にも口外してはならぬこと。なのについ、語ってしまった自分だったのは、取り立ててもらえるかも知れないという出世の欲が心のどこかにあったから。ところがそのお人は二重スパイで、平八から聞き出した情報を南軍へと伝えると混乱に乗じて逐電し、凄惨な待ち伏せ攻撃の資料として役立たせたことを手土産に、南軍へ英雄として華々しく迎えられたとか。
「それならそれで、自分の犯した失態であると、その罪を認めての厳重に罰せられればよかったのに。臆病だった私は口をつぐみ、その内、証拠不十分ということで解き放たれました。」
 当時はただただ混乱してもいて、だが、日が経つにつれ、自分はなんて恐ろしいことをしたのかとの恐れに襲われた。
「同じ前線にいた仲間たちは、収容先でも次々に亡くなっていたのに、私だけは生き永らえて。もしも人ならぬものの采配なら、これが罰なら、そうやって永劫苦しめということなのかと思いもしました。神無村の話を聞いて、ああそこが私の死に場所なんだと思いました。それなのに…。」
 息を詰まらせた次の間合い、慟哭と共に放たれた声は、詰
(なじ)るような勢いで加速して、

  「私なぞ死んだ方がいいのです。何で生かして下さったっ。」

 血を吐くようなとは正にこのこと。侭ならぬ想いにのたうちまわることも許されず。ずっとずっと腹の内に抱え続けたことで腐らせ切ったその想い、どうとでもなれと思ってのことか、一気に吐き出した彼であり。
「ヘイさん…。」
 あまりの苛烈な感情の高ぶりから、もしやして熱でも出たのではなかろうかと。がたがた震えている身を気遣って、五郎兵衛殿が手を伸ばしかけたその時だ。

  「勝手なことをお言いでないよっ。」

 裂帛の気合いがピンと張った一喝を放って。だんだんという荒々しい音を立てての土足のまま、板の間へと上がって来た者がいる。つい先程まで…悲痛なお顔で黙ったまま、平八の悲しい独白を聞いていた七郎次であり、それが今は、切れ長の青い双眸を猛々しくも吊り上げての、それは鋭い表情と化していて。手前に差し渡されてあった五郎兵衛の手をひょいと流れるような所作にて退けての掻いくぐると、まだ俯いていた平八の、胸倉を掴んでの引っ張り上げる。日頃から嫋やかに見せていても、そこはやはり元・軍人のお侍。いまだに槍をあれだけ操れるだけはあって、しかも気迫が物凄い。
「ヘイさんが、そこいらの甘ったれみたいに尻腰がなくて前向きになれない訳じゃあないことは重々承知だ。そんな過去があって、それへと申し訳なくて、それで居たたまれないんでしょうが、それでもねっ。」
 畳み掛けるように言いつのってのそれから。貫き通すような眼差しで、相手を睨み据えたそのままに、

 「今のヘイさんを大事だと想うアタシらは、じゃあどうしたらいいんですよっ!」

 破れかぶれで怒鳴った彼以上の怒号にて、そうと言い放つ七郎次には、
「…。」
 怒鳴られた平八はもとより、
「…シチさん。」
 傍らにいた五郎兵衛までもがその勢いに飲まれて息を引いたほど。無論、そんなことには構うことなく、七郎次は尚も続けて、
「アタシの知ってるお人にも、そういう見当違いなことを思ってたのがいましたよ。でもねぇ、当人からそんなことを言われてしまった、慕ってた者の気持ちが判りますか?」
 どうしてだろうか。七郎次の声は、叱咤しているにもかかわらず、どこか悲しくて。叱り飛ばしている側の彼の方こそが、今にも泣き出しそうなように聞こえてならずで。
“…シチさん?”
 胸倉掴まれたままな平八にも、そんな微妙な声音だというのは伝わっているらしく。激発しての涙が微かに滲みかかっていた目許を、そぉっと生身の手のほうの指にて拭われたのへも、反発は起きなかったほど。飲まれたようになっての静寂へ、七郎次の側の興奮も一旦は収まったらしかったものの、
「確かに、ヘイさんの命はヘイさんのもんでしょうが。それを尊いと、大事だと想う者がいれば もう、そん時からあんただけの財産じゃあないんだ。そのお人の宝でもあるんだ。それを勝手に貶めるんじゃありません。」
 左右から頬を挟み込むようにそっと包み込まれて気がついた。ああ、いつも久蔵殿にしてやっていましたね、これ。おでことおでこをこつんこと合わせてやってのお説教。傍から見ていて何とも暖かな構図だったそれ。実際にされると…罪深い身には ちと辛いと、思わず身じろぎしかかった平八へ、

  「死ぬの殺せの言うのなら、
   その前に“惚れさせた責任”取ってもらわなくっては。」

 宥めて差し上げたそのシメの台詞にしては、なかなかにドスの利いた一言を。お鼻とお鼻がくっつきそうなほどのほんの間近から囁いて。
「あ…。」
 もうすっかりと毒気を抜かれ、呆然自失の態で動けないらしい平八から、ようやっと手を放した七郎次。ふっと短く息をついてから、ここであらためて…傍らにいた五郎兵衛からの視線に気づいたか。やおら照れたような顔をして、
「えと…後はゴロさんが、宥めてやって下さいましな。」
 そうそう、ここのお片付けもありますよね。後でまた伺いますから、あのその、それじゃあと。我に返っての今度は急にあたふたと、彼の方が大きに焦ってのしどろもどろになりながら。後ずさりでじりじりと離れてのあっと言う間に脱兎のごとく、外へと飛び出して行った素早さと言ったら、揉めていたご両人から、ほんの一瞬、毒気を抜いたほど。

 「…今のは久蔵殿以上の素速さだったかの。」
 「そうでしたねぇ。」






 一気呵成という勢いにて感情的になったものが、今度は一気に平熱に戻ったその落差があまりに大きかったものだから。あああ、何を偉そうなこと言ってたんだろう自分ってばと、あまりの青臭さと恥ずかしさに襲われて、脱兎のごとくにあの場からは逃げ出したものの、
「…シチ。」
 お隣り同士という配置の関係で、だからこそ聞こえた騒動に七郎次が駆けつけたのと同様。こちらさんは加わるつもりはなかったらしいがそれでも、戸口近くで成り行きは聞いていたらしき勘兵衛様が、元詰め所へと駆け戻りかかっていた古女房を呼び止める。穏やかそうな眼差しで、こちらを見やる彼であることから、聞かれていたと一目で察した七郎次。微妙なお顔をしつつ、それでもくすすと微笑って見せて。
「…上手だったでしょう? 怒鳴り合い。」
 あっけらかんと言うものだから、
「………。」
 蓬髪の壮年殿には少々返答に困られた様子。それでも構わず、
「ああいう時は、大声出させてお腹の中身を全部吐き出させた方がいいんです。」
 うじうじと独りで考えてたって答えは出ない。いやさ、前へは進めない。決めるのは自分ですが、誰かとのやり取りをしない限り、持ち札は増えやしませんからね。一種の“策”であったかのような言いようをした七郎次は、だが、

 「言うに事欠いて“惚れさせた責任”はよかったですよね。」

 自らの言いようへと苦笑する。こんな勝手は言い分はないと、判っていながら、されど言わずにはおれなんだ。だって、
「さっきの啖呵、実をいや、アタシもああやって怒鳴られたからスラスラと出て来たようなもんでしてね。」
「? お主が?」
 さて、そんな場面が一体どこであったものかと、小首を傾げた勘兵衛へ、

 「雪乃にね、言われたんですよ。」

 もはや自分の胸は痛まないからということか、さらりと言ってのけた七郎次であり、
「あいつに生命維持装置ごと拾い上げられた5年前のことです。よすがもなくの絶望から、いっそ追い腹切ろうかってところまで思い詰めていたら、頬を思いっきり叩かれましてね。もしもその上官様が生きていたらどうすんだと。それに、ずっと心配しているアタシたちの想いをどうしてくれるんだいと叱られやしてね。」
 くすくすと穏やかに微笑った彼へ、
「…。」
 勘兵衛は敢えて何も言わぬまま。七郎次もまた、返事なぞは期待していない様子でいるらしく、
「ヘイさんはまだマシです、あんなして外へ吐き出してくれましたからね。」
 自分たちの寝起きする家の方へと歩みつつ、しみじみとした口調で言葉を続けた。
「アタシが例えに出したお人の方は、本当にもうもう、つれない冷たい唐変木で。」
 誤解されても構わない、むしろそうやって煙たがられて本望と言わんばかりの偏屈ぶりを貫いておいでで。自分が幸いに縁を結んではならんと、そりゃあもう頑迷にこだわってたお人で、と。ここぞとばかりに憎々しげに言ってやるところが、
「…。」
 心当たりでもあるものか、勘兵衛殿の口をますますのこと封じてもいるようであり。そんな二人の進む先に、
「あ…。」
 家並みの向こう、木立を抜ければ鎮守の森へと向かう道の先。遠くからゆっくりと、水分りの巫女殿と並んで帰ってくる青年の姿が見えた。間近い冬を匂わせる、晩秋の薄い陽光が柔らかそうな金の髪を淡く照らしていて、何とも言えない暖かい色味に染め上げている。あの真っ赤な衣紋ではない姿にも、このところはすっかりと慣れた次男坊。今朝からキララと共に出掛けていた彼であり、ああ、あの子に今の修羅場を聞かれなくてよかったと、何とはなくに思っていた七郎次へ、

  ――― お主に慕われて、
       だのにつれなくしたそやつは、よほどの果報者だの?

 すぐの傍らからそんな声が立ったものだから。え?っと聞き返しかけたと同時に意味が拾えて、胸底が震え、頬が一気に熱くなる。今頃に何ですようと思いつつ、でも、お顔を見るのが何だか憚られ。それでもこっそり、視線だけをそちらへやれば。何とはなくの感慨深げに、伏し目がちになっておいでであったりしたので、

 「…そうでございましょうか?」
 「ああ。きっと感謝しておろう。」

 他人事のような言い方をして、だが。その口許へと浮かぶのは、擽ったげな、それでいて面映ゆそうな苦笑ばかりで。それを見て、
“…勘兵衛さま。”
 何だか自分までが、平八に便乗しての言いたい放題をしてしまったような、そんな気がしてこちらも苦笑が止まらなくなって困った、おっ母様だったそうでございます。







  ◇  ◇  ◇



 一方のこちらは、打って変わって静まり返ってしまった隣家の居室で。気勢がすとんと静まっての沈黙が居たたまれず、倒れた卓や何やを片付けていた五郎兵衛が、ふと…ぽつりと呟いたのが。

  ――― なあ、ヘイさん。
       ……………。

 それへの返事はなかったが、
「▽▽▽という御仁を覚えておるかの?」
「…っ!」
 力なくうつむいていた頭を覆う、赤みの強い褐色の髪や、それが降りかかっている小さめの肩が震えては、無言のままに知っていると答えたようなもの。重ねて訊いての確かめることもなく、五郎兵衛は片付けの手を止めぬままの淡々と、独り言のように言葉を続ける。

 かつて、北軍にそれは腕の立つ工兵がいるらしいという噂が流れての。これまでにない効率で素早く駆動するとかいう、まったく新しい仕様の動力機関の青写真を引いておるとの話で。南軍でも鳴り響くほどとはどんなお人だろうかと名前だけは覚えていたのだが。ある時、ふっつりとその噂が途絶えてしもうた。
「何でも、諜報機関が秘密裏に動いての、こちらへ引き入れようとの画策が働いたらしいのだが。何がどうこじれたのやら、その男の上役だけがこちらへやって来てしまったらしくての。」
 南の側へ来ないかと声をかけて来た連中が、本当は…自分ではなく部下の一工兵を求めているのだということへと気づいての、そんな事実が腹に据えかねたのか。その指揮官殿は、逆に諜報員らも欺かってやろうと思ったらしい。自分へ恥をかかせた、何にも知らない工兵へも手ひどい仕打ちをしたとかで。彼のいた部隊は全滅し、その悶着のせいで前線から離されての部署替えとなった彼へは結局手が出せなくなり、それでのこと、そんな失態を蒸し返すこととなるとばかりに、彼
(か)の工兵殿への噂も立ち消えたらしくての。

 「………。」

 平八はやはり何にも答えはしなかったけれど。今更そんなことが判っても、そこへと戻れるのでないならば同じだと、やはり思っている小さな肩の持ち主殿であるのかも知れなかったけれど。


  ――― なあ、ヘイさん。
       某は、シチさんのように器用でもないし、
       勘兵衛殿のような威容も持たぬ。
       久蔵殿のような鋭にして弾ける天才肌でもなければ、
       菊千代や勝四郎のような、やり直しの利く若さや、
       物知らずから来る清々しい無謀からも縁遠い。

       ………。

       だがな。某は力自慢で、あと粘り強さには自信があるのだ。
       だから。

       ………だから?

       某にも背負わせてはくれぬか?
       ヘイさんが背負っているその重荷。

       ……………………。


 ややあって。
「…こんな言い方は滸
(おこ)がましいかの。」
 自分で自分の言いようへと苦笑をすると。片手で倒れた卓をひょいと引き起こし、そこへともう片やの手へ抱えていた手拭いやタオルの一式を載せた五郎兵衛殿。ああなんて、懐ろの尋の深い方だろか。大人げなくも拗ねてる相手へ、そうまで気を遣わないでいいのにね。

 「………ゴロさん。」
 「んん?」
 「ゴロさんだとて、それは重たいものを腹に抱えていなさるくせに。」
 「そうかのぅ?」

 思い当たらぬと首を傾げる銀の髪した壮年様へ、
「やはり重いものを抱えておいでの勘兵衛殿を、それはしっかと支えておいでのシチさんには到底敵いませんが。」
 それどころか、私の方こそが支えていただかねばならぬ半人前ですが、と。俯いたままにて訥々と、それでも…どこか単調だった声にじわじわ、感情が滲んで来ての震えがかかるのが判って。
「…。」
 手仕事半分で聞いて良いものではないと、その手が止まっていた五郎兵衛へ。いつものエビス顔の“無理から笑い”に細められた目許じゃあない、榛色の双眸が、強く潤んでの照れ臭そうに、それでも見開かれているお顔が向いて。

  「本当は短気で怒りっぽくて我儘な。
   そんな私でも…お傍に置いて下さいますか?」

 精一杯の勇気、振り絞ったのが判るお顔がそれは眩しくて。しみじみ眺めていたかったが、それこそそうも言ってはおれずで、
「ああ。いておくれ。」
 深々と頷いて。大きな手をぽふりと、頭の上へと載せてやる。感極まったか何度も瞬きをするお顔が、どうしてだろか、いつも以上に幼く見えて、


  ――― なあヘイさん。
       何ですか?
       ヘイさんはそんなお顔だったのだな。
       はい?


 本人もまだ気づいていないのならば、これは正しくの一番乗り。何も繕わずの彼の素の笑顔、初めて見たのがこの自分だとはと。それを持ち出しては惚気とする五郎兵衛殿となるのは、もう少し後日、もう少し後年のお話だけれど。何でもないよと笑い返した五郎兵衛殿の笑顔だって、それを見た平八が、すこぶるつきの甘やかに笑い返せたことへのかなりの力になったほど、そりゃあ甘いものだったのにと。だがこちらのお惚気は、誰かさんの胸の深くへさっそくしまい込まれてしまったそうでございます。



  ああ、もうすぐ雪雲が来ます。

  水分りの巫女様がそうと告げた声を攫っての、
  強い山颪が吹き抜けたけれど。
  どうやらこの冬は、
  少なくともお客人のお侍の皆様には久方の、
  穏やかに過ごせそうな冬となりそうな、
  そんな気がする冬催い…。



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  *な、何とか収拾つけられたのでしょうかしら。
   まだちょっと興奮冷めやらない現場です。
   そうそう、てるてる坊主にまつわる由来と、
   ヘイさんの告白の部分の基礎設定は、
   すみません小説版の方に準じております。(未読のかたには不親切でしたね。)
   さあさ、見直しだ。
   誤字とか何とか、後で書き直すとこ沢山出そうだなぁ。
(とほほん)

めーるふぉーむvv めるふぉ 置きましたvv